ベイスターズ背番号7の系譜~佐野選手

ベイスターズ背番号7の系譜ベイスターズ応援

佐野選手の背番号7番姿がキャンプで披露されましたね。44番も個性的でよかったのですが、記憶に残る名プレーヤーが背負っていた背番号7は、ファンにとって感慨深いものがありますね。

佐野選手の背番号7への変更は、DeNAベイスターズ球団の配慮がにじみでていて、本当に良い球団になったと感涙しています

そこで、横浜時代の背番号7の系譜をまとめてみました。

背番号7の選手(横浜大洋ホエールズ時代から)

以下6名です。ポンセ選手と仁志選手は右ですが、他は左のアベレージヒッターですので、首位打者を取った佐野選手が引き継ぐにはイメージぴったりですね。

  1. 長崎啓二(慶一)選手
  2. カルロス.ポンセ選手
  3. 宮里太選手、
  4. 鈴木尚典選手
  5. 仁志敏久選手
  6. 石川雄洋選手

その中で、首位打者を獲得した左バッター2人について、まとめてみます。

長崎啓二(慶一)選手

川崎時代の1977年に、背番号23番から7番に代わりました。翌年横浜に本拠移転し、1984年まで横浜大洋ホエールズに在籍した後、翌1985年からは交換トレードで阪神タイガースに移籍しています。(引退するまでの阪神での3年間とその後コーチを務められたことから世間的にはタイガースの選手と思ってる方も多いようですが・・・)

グリップを腰の下に下げ、オープンスタンスで来た球に逆らわず広角に打ち分けるバッティングを、よく草野球で物まねしていました。1982年に中日ドラゴンズの田尾安志選手との争いを制し、打率.351で首位打者を獲得しています。このとき、大洋対中日のハマスタでの最終戦で、.351の長崎選手が欠場、.350の田尾選手を5打席連続で敬遠し、中日が勝利、読売との優勝争いを制したことでチームより個人を優先する大洋球団の姿勢が批判されています。

ちなみに、1981年に本名の慶一から啓二に改名したのは、姓名判断によるゲン担ぎのためみたいでして、当時のはやりみたいです。1980年代~1990年前半に改名したプロ野球選手はたくさんいますね。高木由一選手も好一~嘉一~由一と改名してますしね。

鈴木尚典選手

鈴木選手は横浜高校2年生の時に4番バッターで甲子園に出場していて、ドラフト4位で横浜に入団した当初から注目していました。
背番号51時代のはじめの4年間は1軍での活躍はあまりありませんでしたが、代打起用からチャンスをつかみ、1995年ころからスタメンに定着しています。
1997年に首位打者を取った翌年1998年から背番号7をつけて、2年連続首位打者&リーグ優勝&日本一を取っています。横浜史上、いまのところ唯一の日本シリーズMVP選手となりました。

代打起用からスタメンの座を射止め、首位打者を獲得した佐野選手と鈴木選手の姿を重ねてみてしまいます。実は、去年の夏の終わりころ、石川選手が42番になって空いている背番号7を、佐野選手が首位打者を取ったらつけるのではないか・・とうすうす感じていました。背番号7になったのは、2年連続首位打者&リーグ優勝&日本一へのDeNAベイスターズの思いがありそうですね。本当によい球団になったなと感涙しています。

ちなみに、1998年は広島の前田智徳選手と首位打者を争っており、最終戦で首位打者が決まる状態でした。結局両者欠場して、鈴木選手が首位打者を獲得したのですが、背番号7の長崎選手のことを思い出していました。背番号7は引き継がれていくもんだと思いました。

まとめ

横浜大洋時代の主砲ポンセ選手、谷繁選手の年のドラフト2位で入団した宮里選手、今期から2軍監督に就任した仁志選手、DeNA創世記にキャプテンを務めた石川選手と背番号7の選手は、記憶に残る名プレーヤー達ばかりですね。

長崎選手や石川選手時代の横浜を考えると、今のDeNAベイスターズは本当によい球団になったなと思っています。佐野選手は背番号7を引き継ぐ者として、鈴木選手のように優勝&日本一を果たし、シリーズMVPに輝くほどの活躍をみせてほしいと願っています!